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「デキる上司は休暇が長い」
小松俊明 著 (あさ出版)

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プロフィール - ロングバージョン -

小松俊明 こまつとしあき Toshiaki Komatsu

東京都杉並区永福町に生まれる。両親の海外駐在に伴い、6歳からの4年半をマレーシアのペナン島で過ごした。

インターナショナルスクール、日本人小学校など、帰国後も含めれば、合計で4つの小学校に通った。典型的な転校生であり、変化への対応力をこの頃に身につけたのかもしれない。一方、一つの場所に落ち着くことを不安に思う性格も、同時に身につけた気がする。

中学受験を経験し、中学・高校は神奈川県横浜市にある桐蔭学園に通う。文武両道をうたう進学校だったが、自分はあまりクラブ活動に関心を持てなかった。一方、学力も平均的な学生であり、両親の米国駐在に伴い、3年あまり学生寮で生活をした。海外についていくかどうか、当時両親から聞かれたが、なぜかついていかない選択をした。赴任先はニューヨークだったが、子供心に漠然と「ここでついていくと自分は米国人になってしまうのではないか」という、そんな不安を胸にしていたように思う。多感な思春期に古いしきたりの残る封建的な厳しい寮生活をおくったが、その時に経験した不条理なこと、そして反発心などが後の人生に大きな影響を及ぼしたと思う。後に3歳年下の弟も同じ寮に入寮したが、ちょっとした出来事を機会に弟を連れて退寮。後に両親が帰国するまでは、親戚の家にお世話になった。

一年浪人し駿台予備校に通う。国立を狙ったが、あえなく撃沈。早稲田にもふられ、慶應義塾大学にひろってもらう。祖父の影響で日本政治が好きだった影響もあり、法学部で政治学を専攻した。ただし政治理論中心の大学の講義に面白みを感じることができず、またサークルや、まして体育界などにも興味はもてなかった。人並みにコンパを楽しみ、一年はあっという間に過ぎた。

2年生となったある日のこと、映画「セントエルモスファイアー」を見た。米国の奔放で自由な学生生活が描写されていたその映画を見たことが、その後の人生に大きな影響を与えた。米国人の個性あふれる学生たちが、少しずつ大人に成長していく姿に共感し、その日から米国留学を目指すようになったからだ。

1989年夏、米国のアリゾナ州立大学(通称、ASU)に留学した。留学センターなどを通した留学ではなく、自分で大学の入学センターに手紙を書いた。将来、簡単にはいくことのできない場所に行ってみたいという希望を通した結果であった。(確かにそれ以来、一度もアリゾナには行くチャンスが訪れない。)

後に思ったことだが、カリフォルニアの大学にしなくて、本当に良かった。アリゾナの荒野は無骨でドライで、なんともかっこよかった。荒野に無数に散らばるさぼてんと赤土のまぶしさは、21歳には刺激的だった。2セメスターをASU経済学部で過ごし、翌年夏、日本に 帰国。アリゾナ、ネバダ、カリフォルニアはくまなく旅行した。またニューヨークからロサンゼルスまで、アムトラックという大陸横断鉄道で縦断したことは、一生の思い出になった。まさに自分の人生観を変えた1年であった。

大学を卒業後、住友商事株式会社に入社。鉄鋼貿易本部、特殊管貿易部に配属。北米・中南米向けを担当し、石油精製などに使う鋼管を輸出する業務に従事。「国際派ビジネスマン」になるという目標の一歩を踏み出した。一方、残業が慢性化した職場、単純作業の繰り返し、そして圧倒的な年功序列など、どうしても自分には目先の仕事に情熱を持てず、日本の総合商社が世間のイメージとは異なる、保守的で日本的な職場であることに、そのとき初めて気がついた。まだ見習いの身分で仕事そのものの醍醐味を理解するには程遠かったが、少なくても当時の自分は魅力を感じなかった。

バランス感覚に優れた優等生タイプの先輩や上司が、総合商社の職場には多かった。基本的には皆、やさしく良い先輩方ばかりだったが、自分が目指したい世界はそこにはなかった。一種の挫折感を味わったが、このことばかりは説明することが難しい。直感で違う、とそう思った。とはいえ、自分も長く勤めれば、いずれ環境に順応していくことは目に見えていた。

そんなとき、海外で自分の事業を起こして成功した事業家と知り合った。父親ほど年の離れた人であったが、聞くことすべて、商社マンの世界とは異なっていた。比較的給料が高かった商社マンの生活、世間体もまずまずよかった有名企業のビジネスマンというステータスが、瞬く間に色あせて見えた。 事業家の生き様が、精神的、また金銭的な豊かさのスケールにおいて、あまりにも違ったからだ。いわば、世界観が違うといっても、大げさではなかった。自分にとってどちらの人生観・価値観を追求していくことが自分の性格にあっているか考えてみた。答えを出すのに、そう時間はかからなかった。

「自分はまだ若い。人生はもう少し冒険してもいいのでは。」そんな思いで住友商事を辞めた。27歳のことだ。その瞬間のだった。自分が自らの人生の操縦席に座ったことを実感した。目の前に、文字通り道が拓けた気がした。このときの気持ちは、説明することが難しい。不安感はさほどなかった。たとえていうと、40キロ制限の都心の細道から、いきなり速度制限のないアウトバーンに出たような感覚であった。

住友商事を退社すると同時に、同僚の女性と結婚した。このとき、ぼくは27歳。妻は23歳。3年間付き合った末に結婚した。一緒に日本を出発し、マレーシアの首都クアラルンプールにわたった。ちょうどオウム事件のあった1995年のことだ。まだほとんど誰も携帯電話を使っていなかった時代である。

海外に行ってからしばらくして、求人情報誌を出版するために、自分の会社を設立した。編集長として求人情報誌の編集業務、そして広告営業に明け暮れた。27歳のド素人の若造が、異国の地で会社経営の真似事を始めたのである。無知がゆえに、がむしゃらにがんばった時期である。MBAを取りに留学するより、その何倍も投資効果があったと、後になって感じた経験だった。

現地の転職希望者向けの雑誌であるために、英語の雑誌を作る必要があった。最初のスタッフとして、法律の専門誌の編集をしていた20代半ばのインド人を採用した。インド人は英語力が高かったこと、そしてマレー人や中国人に比べて、安い給料で採用ができたことが理由だった。次に広告営業をする営業マンを採用した。こちらもインド人だ。デザイン業務は外注していたのだが、あまりに納期を守らない現地の会社に辟易として、MACを購入。マレー人のデザイナーを一人採用し、一部自前で作成を始めた。営業マンを少しずつ増やしていった。

まったくはじめてのビジネスを海外で見よう見まねでやるなんて、今思えば一種の自殺行為のようであるが、自分は大マジメだった。こんなことは若いうちにしかデキないはずだ。(かなり無謀。)しかし面白いことに、実際やっているうちに、仕事を覚えていった。また経験者を採用しているうちに、効果の高いノウハウと、悪しき慣習のようなものの区別ができるようになっていった。どんなときでも自分で経験することが大切であること、何事も一定の投資が必要なこと、試行錯誤の結果生まれる創意工夫にこそ、価値があることに気がついた。

6年間の海外生活の中ではつらいこともあった。そのひとつが苦労して創刊した求人情報誌の継続を断念する決断をしたときのことだ。当時アジア通貨危機がおとずれ、顧客であった欧米企業、現地大手企業の多くが採用をフリーズ。広告費や、採用コストなどを大幅に削減した。大規模のリストラが各社で始まったのである。一定のランニングコストがかかる出版事業は、その大きな不況の波を持ちこたえることが難しかった。ベンチャー系の情報誌は軒並み、廃刊や休刊となった。せっかく仕事の流れが安定して軌道に乗り始めた事業をあきらめることは残念だったが、大資本があるわけでもなく、赤字を続けることはできなかった。大きな挫折感を味わった。

事業の柱を失ったことにより、新しいビジネスをはじめる必要にせまられた。ちょうどそのころ、求人情報誌に広告を出してくれる顧客から会社説明会の開催を委託されたり、また20社以上の企業を集めて、安価で合同会社説明会を開くなど、採用支援の仕事は引きうけていた。

そんな折、ある大手の外国企業の人事部長から、景気後退とは関係なく、外国人社員に対する語学研修を必要としているという話を聞いた。企業にとってプロの語学講師を安定的に確保できないことが問題だった。その企業には50人以上の外国人社員が常に在籍しており、継続的に社員の語学教育をしたいということだった。

とりあえず、顧客のリクエストにこたえようと、英語教師を探してみた。そこで到達したのが、全国の小学校・中学校・高校などの現役の英語教師をパートタイムで採用することだった。現地の公務員は給料が極端に低く、大半の教師がアルバイトで生計を立てていた。彼らは学校教師という仕事から得られる収入では生活が成り立たず、副収入を得る道を皆それぞれ模索していた。

外国企業で外国人社員向けの英語講師(パートタイム)募集という広告を新聞に掲載した。全国の学校教師から問い合わせが殺到した。求人広告主が日本人であり、さらに顧客が外国企業であるということから、爆発的な問い合わせがあった。そしてこの新しいバイト口の話は、現地の学校教師の間で、瞬く間に口コミで広がったのだ。

つまり、ぼくは外国企業から語学研修を受注し、現地の相場からは比較にならないほどの好条件で現役の学校教師をパートタイムで採用。彼らに仕事の口を紹介し始めたのだ。応募する学校教師が多いため、いい教師を選別することができ、その結果、企業側も良質な現役の学校教師から語学を学べるということで、非常に評判はよかった。

意外なところで、新事業が立ち上がり、ビジネスが軌道に乗った。出版事業で余剰となった社員をすべて、この事業に回した。後に、企業向けだけではなく、個人のビジネスマン、そして現地の裕福な家庭の子弟向けに、学校教師を紹介するようにもなった。そのための専任スタッフも採用した。

この結果、僕には全国の学校教師とのネットワークと、さらにお金持ちの現地のビジネスマンとのネットワークが急速に広がっていった。売り上げ規模は現地通貨であるし、実はたいしたことはなかったのだが、全国の学校教師が毎日僕のオフィスに押し寄せ、毎日たくさんの教師を面接して採用を繰り返していたのは、不思議な状態だった。学校行事にも招かれたり、なぜか子供たちにまで紹介される始末で、やりがいは大きかった。ある意味、ぼくは社会の役に立っていたのだと、そのとき実感した。

6年を東南アジアの小国で過ごした。この間、子供も大きくなった。仕事も軌道に乗り、やりがいも感じ始めていたが、自分も30代半ばになった。そろそろ、この「人生のアドベンチャー」を いったん終わらせる時が近づいてきていることを予感していた。

アジア通貨危機による不景気も乗り越えた。副首相の内乱による政情不安の時期もあった。現地の複数の大臣との個人的な人脈もできていた。ぼくはローカルビジネスに溶け込んでいた。異国の地において、自分の居場所を確保していた。

求人情報誌、会社説明会、そして企業研修という形で人材ビジネスに関わったことは、大きな収穫であった。ベンチャー企業を立ち上げて、会社を経営する苦労も経験した。外国人を雇用し、彼らのニーズを満たすことの大切さを学んだ。ビジネスを続けるには、社会の役に立たなければいけないという真理も学んだ。日本を離れて6年がたとうとしていた。そろそろ新しい人生のフェーズに入ってもいい頃だと思った。

2000年の暮れ、会社を清算し、家族3人で1ヶ月の旅に出た。大好きなタイには2週間以上、滞在した。アジアをぐるっと回って、1月に日本に帰国した。求人情報誌の経験から、日本では外資系企業を対象にしたヘッドハンターになることを決めていた。

 帰国後、一般企業に戻ることに不安だった自分は、大手の外資系人材紹介会社のオファーを蹴り、年配の外国人ヘッドハンターが細々と仕事をしているスモールオフィスに入社した。日本で新しくスタートを切るには、そうした形がやりやすいと感じていたからだ。ただし、そこでは個人企業の壁に早々にぶつかってしまった。正直なところ、30代半ばの自分には、残念ながら学べることがほとんどなかった。データベースで顧客や候補者の情報管理をせず、プリントアウトした紙で情報をファイルするだけの業務は、マレーシアの自分の会社よりも、はるかに遅れていた。

1年と数ヶ月で見切りをつけ、以前から声をかけてもらっていた米国系人材紹介会社に転職した。まだ設立間もない会社で買収された直後であり、マネジャーとして採用するというチャンスに乗ることにした。幸い、売上は伸び、自分の仕事が軌道に乗った。

2002年には新しいチャンスが芽生えた。海外で求人情報誌の編集をしていた経験を生かして、新聞、雑誌、 テレビなどの取材に応じるようになったのだ。処女作、「ストリートワイズなヤツになれ」はこの年に発表した。編集者が新人の私にチャンスをくれたのだ。

2002年以来2008年の今日まで、著書は14冊になった。ジャンルは、外資系・転職・ キャリア・MBA・英語・コミュニケーション・ リーダーシップなどである。また 企業をはじめ、大学、カルチャースクール、 専門学校、ビジネススクール、青年会議所、商工会議所などで、 講演活動もするようになった。

そして2008年10月、第二の起業をすることにした。今度は日本で、それも自分の専門の領域での起業である。小さな子供も二入いるし、住宅ローンは重く、自分はもう40代である。ただ、20代の人生のアドベンチャーとは気分は異なるし、稼ぎを優先して一生懸命走り抜けてきた30代とも異なる。

40代は、クオリティーの高い仕事だけやりたい。もう成功報酬の仕事はやりたくない。自分が必要とされる相手に対して、最高のサービスを提供することだけを考えていきたいと思っている。また新しい仲間つくりをしなければならない。昔の仲間達との再会もあるかもしれない。どちらにしても、人生のクオリティーを求める仲間たちとのこれからの人生が楽しみだ。

大学卒業後に勤めた日本の大企業を辞めたことがきっかけで、それ以後、自分は人生の操縦席に座った気がする。「自分の好きなことをして飯を食べてきた」という自負もある。もちろん、その陰には家族の協力、理解にも支えられてきた。

これからも精神的に、情緒的に、そして金銭的にも豊かさを求めて生きていきたい。自分の人生観、世界観を常に見つめなおし、時間と気持ちにゆとりのある生活をおくることを目標にしている。 社会や人の役に立てる人間になることを常に意識していきたい。

これまでお世話になった人たちへの恩返しも忘れてはならないと感じている。その具体的な形が、後輩たちや若い世代にできる限り手を貸すことではないかと考えている。

何よりも健康が第一である。そして、人生は冒険である。いつまでもチャレンジングスピリッツを発揮して、人生を楽しみたいと思う。

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